「とんかつダイアリー第九回」
初めてボーリングに行ったのは小学校の低学年のころだ。近所に2つ年上の従兄が住んでいて、その家族と僕の家族とででかけた。従兄は器用な凝り性で、その時が三回目のボーリングだといったが随分とうまかった。僕はもちろん全然駄目で、伯父の前で「いつ帰るの?」と何度も聞いて父ににらまれた。帰り道に伯父のお薦めのトンカツ屋に行った。従兄が「またあそこ?」と言った。
高校時代、僕は練習の厳しいブラスバンド部に所属していた。高校が実に自由で適当な校風であったから、朝練や放課後練だけでなく昼休みまで練習するブラスバンド部員は、クラスの中で変り者の扱いをうける。同級生がくわえ煙草でパチンコをしたり、雀荘にたまったり、隣の女子高生とドーナッツショップでつまらない冗談を言い合ってる間、僕は大太鼓やらシンバルやらを叩いていた。自由な同級生が羨ましかった。憧れでもあった。僕達の高校は私服だったのだけど、パチンコをしている同級生はブラスバンド部員達より格段におしゃれだったし、会話も洗練されているように感じた。彼らと遊ぶようになったのはコンクールに落選して引退してからだから、三年生の夏休み以降だ。男同士の同級生に、今だったらそんな感情は抱きづらい。好きなヤツがいた。憧れと言ってもいい。彼は勉強以外なら何でもできた。服は格好いいし、話もおもしろい。麻雀もパチンコもギターもうまかった。彼を含めた5人でボーリングに行った事がある。みな遊び人揃いだったが、ボーリングは慣れていないらしく、不恰好なフォームで続け様に溝に投げ込んではゲラゲラ笑った。彼だけは特別だった。やりこんだ人間のフォームだった。ストライクをとると、彼にとってそれは珍しい事でもないだろうに大げさに喜んでみせて、しらけがちなヘタクソ連中を笑わせた。ところで、僕はその日、自分でも信じられないくらい絶好調だった。三回続けてストライクを出したりしてヤツと途中まで互角のスコアだった。もちろん人生でもそうはないマグレってのだけれど。最終フレームの直前にヤツは僕にだけ聞こえる声で「緊張するな。結局オレらだけの勝負だもんな。」と言ってマイルドセブンの煙を吐いた。
大学生の時は随分とボーリング場に通った。何であれほど熱中したのか分からない。たぶんヒマだったんだろう。近所に住んでいたMという友人と橘ボールというボーリング場によく行った。とにかくマナーにうるさいボーリング場で、そこかしこにマナー向上ポスターが貼ってある。投げる時は右側レーン優先という事を僕はここで覚えた。そんなところだから上手い人ばかりが集まる。揃って200オーバーの老夫婦と隣り合わせた事がある。僕とMがたまにスペアをとると、夫婦はボールを置いてまで拍手してくれた。僕達は感激してお辞儀をした。そうして、夫婦がストライクやらスペアをとる度に僕達も拍手をした。僕とMは何度も何度も拍手をして、夫婦はその度にお辞儀をした。
一昨年の夏、実家に友人を二人連れて帰省した時の事だ。温泉につかり酒も少し入った友人がボーリングに行きたいと言いだした。酒を飲んでいない母親に運転を頼んだところ「じゃあ久しぶりに私もやろうかな。」と言いだす。成り行きで父を誘うと「やろうか。」と言う。結局5人ででかけた。父は足が悪くて普段から杖を持っていたから心配したが1ゲーム笑顔で投げた。笑顔だったけれど100に届かないスコアには少しショックを受けていたかもしれない。「足が痛いのにすごいですね。」と友人が言ったら「大して痛くないんだよ。」と言った。
年末は一人で帰省した。父は杖をついていなかった。「最近調子がいいんだ。」と言った。三人でボーリングにでかけた。隣のレーンの中学生達が僕達のボールを使ったり、まるでマナーがなっちゃいなかったけど中学生だ、仕方がない。彼らはまだ橘ボールには行ってないんだ。その日、父はギリギリで100を超え、僕達はおいしい餃子屋さんでたらふく食べて帰った。
2007年1月10日/BROKENSPACE 寺田
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