「とんかつダイアリー第五回」
中学校にあがるまで僕の夢はプロ野球選手だった。自信があった。憧れたのは江川だ。小学生だった僕は同級生の誰より野球に詳しかった。父親は「ユウぐらい野球が好きなら、プロにだってなれるよ。ただもっと練習しなくちゃ駄目だぞ。」とよく言った。息子は練習は少しもしなかったが、マウンドに立ち力投するシーンのシュミレーションは怠らなかった。そして中学校に進学し11人しかいない弱小野球部に入部した僕は、2人しかいない補欠のうちの1人になった。
僕に与えられた使命は三塁コーチャーと代打の切り札だった。在学中に数えるほどしか勝たなかった弱小野球部だから、僕にチャンスが与えられるのは決まって負け試合最終回のツーアウトランナー無しの場面だった。ちなみにもう一人の補欠は僕の前の打席に代打で出場した。そして僕達はきまって三振した。
僕の通った学校では地区ごとにチーム分けされた父兄による野球大会が年に一度行われた。体力に自信のない父親は毎年応援専門だったが、ある年どうしても人が足らず急遽出場する事になった。足を少し悪くしていて実戦からはずいぶん離れていたが、小さかった僕を毎日キャッチボールに誘った父はやはり野球が大好きであり、誘われて張り切っているように見えた。僕も近所の友人たちと応援に出かけた。そして一回戦で僕の地区は父のエラーで負けた。
一回戦で負けたチームは敗者復活戦にまわる。優勝候補だったチームの雰囲気は最悪だった。キャプテンを務める誰かのお父さんが打順を発表している。「もう次の試合はうまい順でいいな。Oさん、一番な。オレ二番打つから。」父の名前を最後によんだキャプテンは続けて父にこう言った。「むこうのピッチャーはノーコンだから振らなくて大丈夫だ。フォワボールならもうけもんだ。」
試合を終えた父は懇談会という名の飲み会も欠席せずに参加した。だから帰ってきた時にはずいぶんと酔っ払っていた。父は落ち込んでいないように見えた。「もっと練習しておくんだったな。」と笑った。そして大して広くない部屋で何度もジャンピングスローの仕草を繰り返した。危ないからやめてと母親が止めたが、父はむきになって繰り返した。そしてその何度目かのジャンプで父の手が天井から下がった照明のガラス玉を破壊した。父の右手があっという間に血で赤く染まった。母が大きな声をあげた。「ごめん。」と小さく謝った父がその時どんな顔をしたかは憶えていない。
僕は高校ではブラスバンド部に入った。もちろん今プロ野球選手じゃない。
2005年11月10日/BROKENSPACE 寺田
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